ブックス hypo-

引き出された罪人のように、
彼は首を垂れて、本棚の前に立った。
広い部屋の壁一面を埋める本たちが、
一斉に、彼を見下ろした。

いったい、どうなさったの?と、
ロシア語で書かれた、勝気なヒロインが囁く。

聞こえないみたいだ、ちっとも、
まだ若い作家の書いた、年若い父親が溜息をついた。

こっちは楽しいぜ、戻ってこいよ、
ミステリ小説の探偵が皮肉げに笑い、

いや、だめだ、彼はもう、
SFに出てくる年老いた科学者が、短く言った。

彼は目を閉じて、本の背表紙を指で辿る。
古い紙の匂いを、静かに吸い込む。
落ち着く筈のその感触、空気。
けれどそれは彼の眉間の皺を、より深くするばかり。

閉じられた本の向こうに、今も変わらず、
その世界たちはある、彼らはそこにいる。
変わったのは、自分のほうだ。
何故今、言葉の向こうに自分は、
暗くがらんどうな廃墟しか、見ないのだろう。

書かれたものだけではない、
自分が、誰かが話す言葉まで、まるで、
悪い魔法がかかっているように、うつろに聞こえる。

彼は呟く。

絶望。

分厚い母国語の辞書が、低い声で返す。

希望。

愛、彼が呟き、
孤独、と辞書が囁く。

彼は囁く。

どうして?

辞書は黙る。

彼は喉を絞るようにして声を出す。

どうして。

背後の窓から差し込む月の光が、
彼の足元に黒く、影を落としている。
立ち尽くす彼の足元で、影は
静かに時を刻みながら、形を変えていく。

いつか、帰ってくるかな、
剣を携えた少年が、竜の背中から言う、

さあねえ、
南の国の食堂のメモをひらひらさせながら、女記者が笑う。

かちり、研がれた刃のように尖った、
時計の長針がひとつ進む。
鐘の音が何にも興味なげに呟く。
ぼうん、ぼうん、ぼうん、ぼうん。

あのう、

本棚の隅から、ためらいがちな声がした。

覚えてますか。
僕は覚えてます。

本たちは声の方を振り向く。
それは、ぼろぼろになった、手書きのノート。
中のページに記されているのは、子供のように雑な男の字。
声は一瞬ひるみ、でも小さな声で続ける。

あなたとあの詩集が出会ったのは、緑の鮮やかな五月でした。
汽車に乗り合わせた女の人が、読んでたんですよね。
眠った女の人の手元で、ぱらぱらとページがめくれて、
あなたはあの詩集の、優しい言葉たちを知ったんです。

ずっと探していたあの本と出会えたのは、夏の通り雨のおかげでしたね。
雨宿りでとびこんだ古本屋さんの棚の奥から、
物静かな店員さんが、そっと持ってきてくれたのでした。
あなたは喜びのあまり、代金を払い忘れるくらいでした。

そりゃあぼくは、ただの、
あなたの走り書いた、読書ノートにしかすぎませんけれど。
ぼくは、知ってるんです。
あなたがたしかに見ていた、小さな世界のこと。

公園の焼きぐりと、枯れ葉のにおいを嗅ぎながら読んだ、あの時代小説も、
カフェのストーブの熱を受けながら、一気に読み終わった、あの恋愛小説も。

ねえ。
ぼくの中には、あるんですよ。
まだ、その世界が。

男は少しだけ、顔を上げる。
本たちは息を呑んで、それを見つめる。

いやいや、どうなるかな。
飲んだくれながら、詩人が笑い、

戦争で命を落とした少女は、日記を抱えて見上げる。
ただ、黙って。

男は手を伸ばして、本棚の本を引き出す。
そうっと、何かがこぼれ落ちるのを恐れるように。

わたし、か。
年老いた女性の哲学者が、ひそやかに笑う。
本たちはかすかにさざめいて、
やがて、何かを待つように静まり返る。

男はぱらりと哲学書のページを繰り、
かすかに頷いてから、子供のように本を胸に抱いて、本棚を仰ぎみる。
哲学書の一節を、低い声で口ずさみ、
そしてゆっくりと、部屋を出ていく。

いってらっしゃい。
本棚の隅から、小さい声が囁いた。
窓の外の月は木陰に落ちてゆき、部屋は静かに、闇に包まれる。
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