サイレント 淀美佑子

静かに。
 静かにしているためには、騒音が必要だった。

 バスのエンジン音が、座席の振動と一緒に響く。ふっと流れて途切れた、携帯
電話の着信音。それから耳をかすめる、後部座席からの囁き声。大きなフロント
ガラスから見える信号機の、赤や青のランプを眺めながら、わたしは人形のよう
に膝をそろえて座ったまま動かない。
 深く引きこもった意識が、鉛のように重たい。けれど、わたしを取り巻く音の
渦は、体を湯船に沈めたときのように、そっと軽さを与えてくれる。

 天気のいい昼下がりのバスは、どこかへ出かけていく人々の、能動的な意識を
つめこんでいる。けれどわたしには、どこへも行くあてがない。
 こんな晴れやかな休日に、以前は何をしていただろう。
 例えばあの日の、スクランブル交差点。
わたしは窓の外の明るい街を眺めながら、彼とふたり包まれていた喧騒を思い
起こした。


 黙って。
 黙っているためには、喧騒が必要だった。

スクランブル交差点では、ひしめきあう群衆の声が、波のようにさざめいてい
る。
わたしの隣で彼が言った。
「ねえ、あの通りの…」
 言葉の続きは喧騒に溶け、彼には届かない。それがわかったわたしは、言いか
けた言葉を飲み込んで、笑顔だけを向けた。彼も「しょうがないね」という意味
で、笑い返す。わたしたちは、互いの声を聞くために、それ以上のことをしなか
った。
そうして喧騒の中にまぎれてしまった言葉には、なにがあっただろう。それら
すべてをきちんと伝えていたら、あるいは聞いていたら。わたしと彼とは、心が
通じていただろうか。

 停滞していく日常。何か悪いことが起きたわけではない。けれども、何も起こ
らない。ただ、少し疲れてしまった。こんな日に、会いたい人が誰も思い浮かば
ない。これは、片思いよりも深い絶望。

 静寂 ――― 静かなことは寂しさに続いているのでしょうか。
 沈黙 ――― 黙っていることは沈んでいくことなのでしょうか。

唐突にバスの空気がしんと凍りついた。エンジン音がアイドリング・ストップ
で途切れたのだ。隣の車線のタイヤが滑る音、店頭販売の声や、人がたてる無数
の音。それらが一斉にバスの中の静けさを、生々しく描き出した。
みんなが息をひそめていた。居心地悪そうに、ヘアピンに触れて位置を確認す
る人。膝を組んで姿勢を変える人。咳払いをする人。わたしも、深く息を吸って
窓の外へ視線を流す。
途切れた考え事は、地面ではじけたシャボンのように、微かな余韻を残して消
えた。
 エンジン音を失ったバスの中は、騒音の不足で息苦しかった。

 沈黙するためには、騒音や喧騒が、必要だった。
 それはちょうど、演説や演奏のために、静寂が必要であるように。

 信号が青になり、再びエンジン音がうなりだす。走り出したバスに乗せられ
て、白々しかった車内の緊張がほぐれていく。絡み合う騒音に紛れて、機械仕掛
けのアナウンスが次の停留所を告げた。わたしは、どこへ行くのだろう。たしか
終点は、そう先ではない。わたしは、窓側にこめかみをくっつけるようにもたれ
かかって、そっと目を閉じた。
昼下がり、見知らぬ人と一緒のバスが、ひとりきりの時間をゆるやかに埋めて
くれる。

 海鳴りの奥底で、貝がじっと閉じている。
激しい雨音の影で、蝶が羽を閉じている。
わたしはそれに、なりたいと思う。

 席を立つ人の気配に目を覚ますと、バスが終点に到着していた。わたしはしか
たなく、立ち上がってステップを降りた。駅前の道に出ると、陽射しが目に突き
刺さって、ぼんやりとした意識を切り開く。

わたしは、人の流れに乗せられて大通りの信号を渡った。

晴れた日の休日に、わたしはまたバスに乗るのだろう。そしてこの雑踏にまぎ
れて、誰かを探している。あるいは、あなたを見つけようとしている。いつか、
そっと口を開いてあいさつをする。
押し黙ってバスに乗っているわたしを、見かけても笑わないで。いつかき
っと、この喧騒の中で出会う日まで。
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