カルテット マワタ

秋の初め頃、ロンドンの大学にいる従姉から電話があった。クリスマス前に遊びに来ないかと言う。春までは難しいと思ったけれど、仕事をやりくりしてなんとか5日間の休暇を確保したのは、クリスマスまであと2週間に迫った頃だった。
  大英博物館を楽しみにしていたのに、ヒースロー空港に着くなり従姉の車に拾われて、ずいぶんと田舎の道を走っている。どこに向かっているのか尋ねると、
「コッツウォルズのB&Bを予約したのよ。農家体験ができるの」
という。都会好きの彼女が珍しいと思ったら、
「田舎の暮らしがどんなものか見ておこうと思って。ほら、こっちの人って、リタイア後に田舎に住みたがるじゃない?」
なるほど、そういうことか。私は将来の下見に付き合わされているらしい。
「へえ、じゃあ彼とはうまくいってるんだ」
「婚約したの」
  晴れがましい内容とは裏腹に、雨の日に蛙でも踏んでしまったかのような声だ。どうやらマリッジブルーというやつらしい。ブルーな気分はそのまま彼女の頭脳を鈍らせ、私たちはたっぷり道に迷って、すっかり暗くなってから宿に辿り着いた。感じの良い初老のマダムに案内された部屋には小花柄のキルトのベッドカバー、床にはタータンチェックのラグが敷いてある。部屋の隅に置かれた衣装箪笥の上には、主の家族の写真にまじって赤い上着を着た蛙の人形が置かれていた。

  翌朝、朝食が済むとマダムに呼ばれた。これからクロテットクリームを作るから手伝ってという。
「クロテットクリームってなあに?」
「バターとクリームの中間みたいなの。スコーンには欠かせないのよ。でも家庭で作れるなんて知らなかった」
  私たちが小声でやりあうのに構わず、マダムはそこのボウルを取ってとか、掻きまわす手を休めてはダメとか、次々と指示を出した挙句、
「このまま一晩冷まします」
  と厳かに宣言した。今日は食べられないと知って不服の声を上げると、マダムはにっこり笑って棚から瓶を取って見せた。今日食べる分は先に作ってあったらしい。
「なんだか、3分クッキングみたいね」
 と言うと、通じないはずのマダムまでもが笑った。

  マダムの薦めで、従姉は彼へのクリスマスプレゼントにマフラーを編み始めた。あまり捗っている様子はない。ついにため息をつくと、
「ああ、こんなのとても無理!  こういう、自分の畑で採れたものを料理したり、ジャムを作ったり、飼ってる羊から毛糸作ったり、キルトを縫ったり、バラを育てたり、クウネルみたいな生活ってそりゃあ憧れるわよ。でも急にできるものじゃないのよ。小さいころからちょっとずつ仕事を覚えていくものでしょ?  だけど彼は二人で定年までロンドンで働いて、それから田舎に行って、いきなりこういう暮らしができると思ってるのよ!」
 とまくし立てた。驚いてこちらを見るマダムに、
「彼女、マリッジブルーなんです」
 と言うと、深くうなずいた。それから
「誰しも人生は思うようにいかないけれど、でも結局なんとかなるものよ。ミスター・ジェレミー・フィッシャーのように」

 と言った。それ誰?と聞くと、
「あなたたちの部屋にいるでしょ、赤い上着の紳士」
「ああ、あの蛙の人形!なんで上着を着ているの?」
「そりゃあ紳士の国ですもの」
  そう言ってマダムは1冊の絵本を持ってきてくれた。蛙の紳士が釣りに行って、うまくいかずに帰ってくるという、私にはよくわからない童話だったが、従姉は納得するものがあったらしい。なんだかすっきりした顔をしていた。

  ロンドンに戻ってミスター・フィッシャーの人形を探した。2つほど連れて帰ったら、日英の蛙カルテットができるだろう。従姉もひとつお土産にするようだった。マフラーは冬の間になんとかするつもりらしい。
「じゃあ、気をつけて」
「つぎは結婚式でね」
  飛行機に乗ってから、あのクロテットクリームのレシピをちゃんと控えてこなかったことを思い出した。
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