海を航る 千早

子どものころ、私が住んでいたのは北信州の、古い温泉の町でした。
 宿が立ち並ぶ石畳の道。玉子のような硫黄のにおい。あちらこちらに設置された源泉を汲みあげる機械からは白い蒸気が立ち昇ります。母はその町で、昼はホテルの掃除婦、夜はお酒を出す店での仕事をして、親子ふたりの生計を立てておりました。
 都会と違って、信州の夜は、早い。
 土地の者が「湯路(ゆみち)」と呼ぶ、温泉地のスナック通りは、日付も変わらぬうちにすっかり看板をしまいます。それでも、店の片付けを済ませた母が帰ってくるのは、どうしたって、夜更けになりました。
 寂しくはありませんでした。
 私はいつも学校から帰ると、同じアパートの二階に住んでいるしいちゃんの部屋に行きました。そうして、ひとつ年上のしいちゃんとふたりでご飯を食べ、宿題をして母の迎えを待つのです。しいちゃんも私と同じ、湯路で夜更けまで働く母親と二人暮らしの女の子でした。
 スキー客で賑わう冬は、母の仕事も長引きます。私はしばしば、しいちゃんの部屋に泊まりました。
 寝る前に、いちど階下の自分の部屋に戻らなければなりません。水道栓を閉め、台所の蛇口を開くためです。そうやって水抜きをしないと、古い木造のアパートでは朝が来る前に水道が凍ってしまうのです。
 とてん、てとん。廊下に出ると、どの部屋からも、蛇口から水滴が落ちて、ステンレス台を叩く音がします。それはまるで、そこかしこに潜む、見えない怪物の舌打ちのよう。私は真っ暗な廊下を、追い立てられるように走る。階段を駆け上がり、しいちゃんの部屋に飛び込むと、あったかい空気と石油ストーブのにおいがお出迎えしてくれて、私は泣きそうになるのでした。
 それから私たちは、六畳の部屋にひと組だけお布団を敷いて、ふたりで身を寄せ合ってもぐりこみます。
 灯りとストーブを消した部屋に、夜の寒気は、しん、としのびこみ、しいちゃんと私はできるだけ体をくっつけます。
「みくちゃん。ここは、舟の上なんだよ」
 しいちゃんはよく、そんなことを言って私をからかいました。ここ、というのは布団の中のことです。
「ここからはみ出すと、海に落ちて、サメに食べられちゃうのことね」
「やだ、こわい」
 私は笑いを噛み殺しながら、わざと怖がるふりをします。
「大波がきたぞ!」
 しいちゃんは私の体を押して布団から落とそうとします。
「今度はスコールが来たぞー!」
 私もそんなことを言いながら、負けじとしいちゃんをくすぐります。
 そうやって、布団の中でおしくらまんじゅうをしているうちに、私たちはぽかぽかと眠くなります。
 とてん、てとん。夢うつつに聞こえてくる水滴の音は、もう、怪物の舌打ちではありません。穏やかな凪の中、雨だれが甲板を叩く。そんな夢を見ながら、私としいちゃんは手をつないで眠るのでした。

 アパートは、私たちが中学生のときに取り壊されました。
 不況の煽りで温泉客はめっきり減っていましたから、住人たちの多くは、それを機に町の外へと仕事を求めて引っ越していきました。私の母も、しいちゃんのお母さんも同じでした。
 私たちのお別れの朝はよく晴れていました。母親同士が話しているあいだ、私としいちゃんは住み慣れた町を散歩しました。
 水に付けられた猫のように不安げな顔をしている私を見てしいちゃんは、
「みくちゃん。ここは、港なんだよ」
 そう言って、靴の先でガリガリと地面に線を引きました。
「この先は、海なんだ」
 ええ、そのとおりです。
 この先に広がる世界は大きな海で、私やあなた、人ひとりがこぎ出せるお舟はいつも、あんまりに小さい。ねえ、きっと簡単に、波に揺らされ、雨に打たれ、サメに狙われてしまう。
 それでも私たちは、互いが、愉快で勇敢な航海士であることを知っていました。
 その朝、私としいちゃんは顔を見合わせて笑い、それから手をつないで、せーので線を飛び越えたのでした。