ヒヨコ マワタ

桜が目前に迫った頃、海の見える大学に赴任した。
東京から新幹線に揺られ、1時間に一本しかないローカル線を逃し、いったい誰がこ
んな職場を選んでしまったのだっけ?と自分を責めながらたどり着いたのは、そんな恨
み言も吹き飛ぶオーシャンビューのキャンパスだった。
案内された研究室の正面には大きな窓。その向こうのなだらかな斜面に点在する建
物、彼方に広がる水平線。事務の人が前任者の引越しの遅れを何度も謝ってくれたけれ
ど、もう上の空である。
「先生の荷物はお部屋に運んでおきました。お部屋にあるものはすべて大学の備品ですか
ら捨てないでくださいね。今日5時からの学科会議は6階の会議室です」
 それでようやく我に返った。持参した手土産を渡すと、
「あ!これ東京の有名なやつ!」
と喜んでくれた。いまどき東京銘菓なんて銘打ったものより、もっと気の利いたお菓
子がいくらでもあったじゃない?と思っていたけれど、意外にもセレクトは間違ってい
なかったらしい。それはそれでちょっと心配になる。私、この人たちとおやつの趣味が
違いすぎないかしら?
研究室の小さな流しの横に木製の食器棚のようなものが置いてあった。ずいぶん年代
もののようだ。近づいてよく見ると、上部は天袋に似た引き戸。取っ手の千鳥のかたど
りがかわいらしい。その下のガラス戸の引き戸の奥には竹製の衝立や、書院造で見かけ
るような違い棚、さらに障子戸までついた凝った造りだ。違い棚の上では、東南アジア
の土産物屋にありそうな蛙の人形が2つ、釣り糸を垂れていた。
「これ、備品?
  きっと前任者の私物に違いない。研究室に置く食器棚にしては大きすぎるし、コンクリ
ート打ちっぱなしの近代的な部屋に調和していない。事務に言って片づけてもらおう、と
思ったそのとき、すぐ近くでケラケラと甲高い笑い声が響いた。振り返ってみても廊下に
人気はない。事務の人ももう帰ってしまったようだ。改めて室内を見回せば、ガラス戸の
中で蛙の人形がお腹を抱えてケロケロ、いやケラケラ笑い転げて、釣り糸がぷらぷら揺れ
ていた。人は驚きすぎると声も出ないらしい。目を丸くして見つめていると、蛙たちが品
評を始めた。
「驚いてるね」
「新入りだね」
「この子はどんなおやつをくれるかな」
「お、おやつがいるの?」
 思わずたずねると、蛙人形は威張って答えた。
「そりゃあそうさ。これは茶箪笥だもの。茶箪笥にはおやつをしまっておくものさ」
  それっておやつを欠かしちゃいけないってこと?なんだか妙なことになってきた。まさ
かこの人形たちが本当に食べるのかしら?しゃべるくらいだから、おやつを食べたってお
かしくはないけれど。むしろ私の方がおかしくなっちゃったのかもしれない。そう思いな
がらも予備に買っておいたお土産を取り出した。ところがそれを目ざとく見つけた蛙が、
「ヒヨコはダメだよ。鳥なんてロクなもんじゃない」
 と抗議した。
「え、だって今日は他に何もないわ。我慢してよ」
  箱を差し入れようとガラス戸をカラリと引くと、蛙たちは悲鳴を上げて素早く茶箪笥の
奥に逃げ込んでしまった。
「えっと、蛙さん?」
試しに呼んでみたが返事がない。やっぱり幻覚だったのかしらと目を擦ってみても、
爪楊枝のような釣竿が2本、確かに転がっている。茶箪笥の奥の暗がりからは、姿は見
えないながらかすかな気配が伝わってくる気がした。
「ねえ、明日は違うおやつ買ってきてあげるから、機嫌直してちょうだい」
  私ったらいったいなにを約束しているのかしら?それでもなんだか楽しくなってきて、
会議に向かうエレベーターで明日はどんなおやつを用意しようかと考えているのだった。
これから私がおやつに振り回されることになるなんて、この時はまだ知る由もなかった。
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