野ばら
淀美佑子
幼い頃に感じた罪悪感を、今も鮮明に思い出せる。
でも、わたしにとってこの記憶は、特別大切なものになっている。
それはあの五月晴れの清々しい庭の緑と、そこに咲いたバラの香りと、
おばあさまの、おかげ。
童はみたり
野なかの薔薇
清らに咲ける
その色愛でつ
飽かずながむ…
この歌を聞くたび、思い出す。まるでわたしの記憶にそっくりだから。
白いお髪(かみ)のおばあさまは、いつも庭に出て草花の世話をなさっていた。お花のことに詳しくて、床の間や応接間によく飾っていらした。日の光の下でおばあさまのお髪は銀色に光っていて、わたしはそれがとても好きだった。
ある日、外で遊んでいるわたしにおばあさまがおっしゃった。
「ねえ、ユミちゃん。とっても素敵に咲いているバラがあるのよ。見た?」
泥遊びに夢中のわたしは、お花といえばおままごとのおかずだと思っていた。
「ほら、ご覧なさい。綺麗でしょう?」
おばあさまは、小さな背丈のわたしに見えるように、手でそっとお花の顔を傾けてくださった。
淡い珊瑚のようなピンクのバラは、夢のように美しくて。おばあさまはわたしに「花を愛でる」ことを教えてくださった。
紅(くれない)におう
野なかの薔薇
けれどわたしの花を愛でる心は、まだ未熟だった。眺めるのは楽しいけれど、ずっと外にはいられない。あしたも同じように咲いているかしら。もしかしたらすぐに枯れてしまうかもしれない。そこでわたしはバラを摘んで、おうちへ持って帰ろうと思った。そうすればおばあさまも、もっとゆっくり眺めることができて、きっと喜ばれるはずだもの。
綺麗なお花を持って帰りたい。
それが悪いこととは思いもしないで、花を枝葉もなしに首から切ってしまった。
「まあ、どうしましょう」
おばあさまは、わたしの手の上にちょこんと乗っかった首だけの花を見て、がっかりなさったようだった。わたしもなんとなくわかっていた。さっきまでお庭で咲いていたほうが、素敵だった。
わたしは、言い訳をするような気持ちで
「きれいだから、とってきたの」
とだけ言った。するとおばあさまは
「お庭で咲いていれば、それで良かったのよ」
と優しくおっしゃった。あんまり優しく言われたので、よけいに悪いことをしたと思った。どうしよう、どうしよう。けれどもう、どうしようもなかった。可哀相なバラの花は、もう元には戻らない。
野ばらの歌はもともとはドイツ語で、少年とバラとの愛と別れの物語だ。
棘をもって抵抗するバラを、少年が手折ってしまう。
折られてあわれ
清らの色香(いろか)
けれど、わたしという少女とバラの物語は、それでおしまいにはならなかった。
わたしは庭遊びに戻っても、何も手につかなかった。おばあさまにも、お花にも「ごめんなさい」と言うこともできなかった。「だって、悪いと思わなかったから」そう心の中で繰り返せば繰り返すほど、罪悪感に胸が締め付けられた。
夕方になってうちに帰り、手を洗いに行くわたしをおばあさまが呼び止めた。
「ユミちゃん、あとでお茶の間にいらっしゃい」
わたしは、申し訳なさでおばあさまの顔をきちんと見ることもできないままうなずいた。お茶の間への足取りも重たかった。
ところがおばあさまは、まるで魔法のように首だけのバラを生き返らせていたのだ。
大きなガラスの果物皿に、澄んだ冷たい水をはり、そっと花は浮かべられていた。キラキラ光るお皿の中で、花の姿は親指姫のお船のように、ゆらゆら漂い踊っていた。
「ほら、ユミちゃん。あなたのおかげで、とっても綺麗よ?」
おばあさまの言葉に、曇った心がぱっと晴れ渡り、わたしも生き返った。
今でもあの時の罪悪感と、それを解いてくれたおばあさまとの思い出は、ずっとわたしの宝物だ。
紅におう
野なかの薔薇
(「野ばら」日本語訳詞:近藤朔風より引用)