浮き輪 マワタ

拝啓  入道雲の白が目に眩しい季節になりました。こちらに赴任して3か月。私は授業
に、会議にと慌ただしく、学生たちはゼミの無い日も頻繁に研究室にやってきて、「おや
つパーティー」の日々です。そんな生活にようやく慣れてきたと思ったら、あっという間
に夏休みですね。
追伸、こちらの学科会議は「アーメン」に始まり「アーメン」に終わります。かし
こ。

  ディスプレイに並んだ文字を読み返し、送信ボタンをクリックする。紙飛行機のアイコ
ンが小さな地球をくるりと一周するまで、つい画面に見入ってしまう。キャンパスに鐘が
鳴り響いている。いつもなら茶箪笥の中から蛙たちが「アーメン、アーメン」と合唱する
声が聴こえるのだが、今は学生たちの楽しげに騒ぐ声に掻き消されてしまっていた。テス
トが終わった解放感で弾けているらしい。
「もしもし、君たち?採点が終わるまでは立ち入り禁止って、扉に貼ってあるよね?」
 新米教員のささやかな抗議はあっさり無視され、おやつパーティー、なう。である。
「みんなで課題のレポートをやっているんです」
 
そう言ったのは、たしか水球部のマネージャーをしている子だ。海辺の大学だけあ
って、水のスポーツが盛んなのかと思ったが、水球はプールだからあまり関係ない気も
する。レポートを書くことと、立ち入り禁止無視との間にも関係がない。だいたい、レ
ポートっていつからみんなで書くものになったの?  これはジェネレーションギャップ? 
それともローカルカルチャー?  私の常識が次々と覆されていく。そんな日々が、でも案
外楽しかったりする。
「先生も食べますか?このクッキー、古臭いけどおいしいですよ」
  別の学生が差し出したのは、バケツ型のクッキーの箱だった。先日ちょっと大きな街ま
で出かけた帰りに、デパ地下で買ってきたものだ。
「ちょっと!なんでソレ勝手に食べてるの!」
 見ればすでにあらかた食べ尽くされてしまっている。
「あそこに入ってましたよ」
学生は悪びれもせず茶箪笥を指さした。
「ああ…貴重なリングターツも食べちゃったわけ?」
  箱を奪い返して未練がましく覗いてみても、大事にとっておいたはずの輪っかの形のク
ッキーがない。家主に無断でつまみ食いなんて、今日こそはガツンと言ってやらねば、と
息を吸い込んだ時、ふと茶箪笥の中の蛙たちが目に入った。輪っかのクッキーを浮き輪の
ようにウエストに装着し、ゆらゆらと踊っている。
「あ…なんだ、見つけたんだ」
「え?なにがですか?」
「ううん、なんでもない」
  不思議なことに、学生たちは蛙の存在に気づいていない。いつも熱心にお菓子を探して
いるけれど、人形にはまるで興味がなさそうだった。私だけの秘密を持っているかと思う
と、ついニヤニヤしてしまう。
  部屋にあったお菓子を食べ尽くした学生たちが帰り支度を始めた。レポートが終わった
様子はない。というか、そもそもレポートに手を付けていた形跡もない。
「先生、お邪魔しましたー。また来まーす」

  研究室に静けさが戻ると、それまで掻き消されていた蛙たちのかすかな声が聴こえてき
た。クッキーの浮き輪がよほど気に入ったのか、上機嫌で歌っている。
海は広いな大きいな、か。井の中ののくせに。
「いや、茶箪笥の中のかな」
「なんか言った?」
「べつに。それより蛙なのに輪唱しないの?」
 すると蛙たちはケロケロ、いやケラケラと笑い転げた。
「この子、まだジョーシキに囚われているね」
「カタブツだね」
「浮き輪踊りしてないからだね」
  なおもケラケラ笑いながら、互いのクッキーを器用に齧っている。なんだ、やっぱり食
べちゃうのか。似合っていたのにな、浮き輪。
そういえば浮き輪なんてもう何年も使っていない。もうすぐ夏休み、浮かれているの
は学生ばかりではない。今年は新しい水着買っちゃおうかな、なんて思いながら、驚く
ほど近くに浮かぶ入道雲を眺めた。
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